2013年01月01日

「諭鶴羽神社」からの初日の出 in 淡路島


謹賀新年

2012年12月21日で終わりを告げたマヤ暦。
2013年、新しい年の幕開けです。

これからは、マヤ文明も予言できなかった(しなかった?)
時代が始まります。

私は、淡路島最高峰の諭鶴羽山(ゆずるはさん)から
初日の出を拝み新しい年をスタートしました。


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↑諭鶴羽山からの初日の出。

凛と冷たい空気に身も心も引き締まります。
それもそのハズ、この日の山頂付近の気温は氷点下3度!
それもで毎年、この風景が見たくて初詣にここへ来るのです。

淡路島の南部を東西に連なる諭鶴羽山の標高は607.9m。
もともとは608.3mだったのですが、阪神淡路大震災のあと
再度、計測した結果40cm低くなっていることが判明したそうです。

その山頂にほど近い約400m付近に鎮座しているのが
「諭鶴羽(ゆずるは)神社」です。


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太平洋を望む南側の山肌にひっそりと佇む古社で
神社に伝わる「諭鶴羽山縁起」によると、およそ二千年前の
第九代開化天皇の時代に開かれたとされています。

祭神は
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
速玉男命(はやたまおのみこと)
事解男命(ことさかのおのみこと)の三神。


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自然崇拝に始まったとみられる諭鶴羽参りは
平安時代の歌人、清少納言の「枕草子」にも
「峰はゆずるはの峰 あみだの峰 いや高の峰」と記されるほど
人々に崇拝され、熊野三山と並んで修験道としての隆盛を誇りました。

諭鶴羽神社は、和歌山県の熊野三山とも縁が深く
熊野の神は、この諭鶴羽山から渡って行ったと伝えられることから
元熊野宮とも呼ばれています。

神話には、第十代崇神天皇の治世に、西天竺の霊神が
『我が縁のある地に留まれ』と誓い
五つの剣を東に向かって投げたそうです。

一は、紀伊国、熊野三山に
一は、下野国、日光山に
一は、出羽国、出羽山に
一は、豊前国、彦山に
一は、淡路国、諭鶴羽山に留まったと伝えられています。

また、長寛元年(1163年)に書かれた『長寛勘文』の
「熊野権現御垂迹縁起伝」には、
甲寅の年、唐の天台山の霊神が九州筑紫国、英彦山の峰に降臨し
戌午の年、伊予国、石鎚山の峰に渡り
甲子の年、淡路国、諭鶴羽山の峰に渡りその後
庚午の年、熊野親宮・神蔵の峯へ渡られたと伝えられています。


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↑宝剣を祀る塚

諭鶴羽神社の境内神域は国立公園特別地域で、
社叢(しゃそう)林の「アカガシ群落」は
兵庫県指定天然記念物に選定されています。

また「親子杉」は兵庫の巨樹巨木に指定され
近畿百名山、ふるさと兵庫50山、ひょうごの森百選にも選ばれています。

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↑兵庫の巨樹巨木に選定された推定樹齢400年の「親子杉」

諭鶴羽神社の境内にある「タブの森」では
お正月に一年間の無病息災を願い
古木でお餅を焼いて食べる風習があります。


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↑境内のタブの森には、たき火用の古木やブロック、イス、金網が用意されており
 参拝者がそれぞれ火を熾しお餅を焼いて食べます。



ここで、もう一度
初日の出が海の上に登るまでの穏やかな風景をご案内しましょう。


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↑うっすらと採光が差し雲の向こうに暖かい光が見え始めました。
 いよいよ夜明けです。


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↑一瞬、空の色が深い青から薄いえんじ色に変わりました。
 夜明け前のこの薄いえんじ色は、はねず色といって縁起の良い色なんですよ。


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↑そしてまた空が青くなり、海の上にご来光が見えました。

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↑白いレースカーテンのような薄雲の向こうで
 太陽が暖かな光を放ち、海にオレンジ色の輝きを与えています。
 海と空が青々と活気づいてゆきます。


ちなみに、右端に見えている勾玉の形をした島は「沼島」といって
伊弉冉尊(いざなみのみこと)と伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が
巨大な柱の周囲をまわって婚姻を行ったといわれる
上立神岩がある島です。

淡路島には、古事記に記された国生み(くにうみ)神話があり
伊弉冉尊と伊弉諾尊が国土創世の際
「天の沼矛(ぬぼこ)」の先から滴り落ちた滴が固まりできた
おのころ島とも呼ばれています。



皆様のもとに
伊弉冉尊と伊弉諾尊、熊野神の
ご加護があらんことをお祈り申し上げます。

今年も良い年でありますように。



タグ:兵庫
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2012年11月28日

松尾芭蕉 生誕の地「芭蕉翁生家」


松尾芭蕉は、今から370年近く前の江戸時代、
正保元年(1644)現在の三重県伊賀市に生まれました。


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↑松尾芭蕉の生誕の地「芭蕉翁生家」
 三重県伊賀市上野赤坂町(伊賀鉄道上野市駅から徒歩約10分)

建物は安政の大震災(1854)で全壊。
のちに改築されたのですがそれでも昔の面影が伝わってくる
建物になっていて楽しめましたよ。


DSCF1516.JPG 小さな入口(格子戸)をぐぐって中に入ります。
 テレビや映画の時代劇などをみていて
 何故あんなに出入り口が小さいのかと
 疑問に思っていたのですが・・・。

 その理由は、当時の平均身長にありました!!
 江戸時代の平均身長は、
 男性で145cm、女性で140cmほどだったそうです。

 現代の小学生・高学年ぐらいの身長ですよね。

 浦和にやってきた黒船のペリーは
 子供の国だと思ったんじゃないかと
 思うのでした。。。



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芭蕉翁生家の中に入ると
表(みせ)の間、中の間、奥の間があり、表の間には
芭蕉翁の座像がありました。


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↑奥の間からは、中庭が見えます

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↑中庭は、こんな感じです

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土間を奥に進むと水屋、釜戸、井戸、みそかめ、おひつ、とっくり、
ひき臼、番傘、十能、風呂場、便所などがあり
当時の生活ぶりをうかがい知ることができます。

この土間を奥までいくと裏庭に出ることができ
そこには、芭蕉の青年時代の書斎となる
「釣月軒(ちょうげつけん)」と名付けられた建物があります。


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↑「釣月軒」の入口

この「釣月軒」は芭蕉が生前中に
自署、自著として刊行した唯一の出版物『貝おほひ』を
執筆した記念すべき文学遺跡です。

この『貝おほひ』を文学の神で連歌の神でもある
上野天神宮へ奉納、俳諧師として世に立つ決意を示し
江戸へと旅立って行きました。

芭蕉が29歳の時のことです。
その後も幾度となくここへ帰郷していたといわれます。


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↑文机と行灯が置かれた質素な部屋に
 若き日の芭蕉の姿が忍ばれます。
 帰郷の時は、ここで寝起きしていたそうです。


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↑「釣月軒」の横・左奥には、芭蕉の木が植えられていました
 
日本史上最高の俳諧師といわれる芭蕉の
当初の俳諧名は、桃青でした。

当時、芭蕉の木は実もつけず弱い木だったことから
食料にもならず紙などの商品にすることもできなかったことから
なんの役にも立たない木だといわれていたそうです。

その芭蕉の木をみて、俳句を詠んだところで
腹が満たされるわけでもなく生活ができるわけでもない
人の役にたつことがないことをなぞって
自らの俳諧名を桃青から芭蕉に改名したと言われています。


121203_1250~0001.jpg 「おくの細道」「野ざらしの旅」など
 後生に残る名作を生み出した芭蕉は
 元禄7年(1694)10月12日、51歳のとき
 旅先の大阪でその生涯を閉じました。

 その終焉の地は、御堂筋の拡幅工事の
 あおりで取り壊されましたが
 現在は、大阪の御堂筋沿いにある
 南御堂のほぼ前あたり
 御堂筋の本線と測道の間のグリーンベルトに
 石碑が建てられています。

 また、亡骸は芭蕉の遺言により
 現在の滋賀県大津市にある
 「義仲寺(ぎちゅうじ)」に運ばれ
 木曾義仲の墓の隣に葬られたそうです。

 ←「此附近芭蕉翁終焉之地」
 と書かれた石碑。



タグ:三重
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伊賀上野城と小さな忍者


三重県伊賀市の上野公園内に
清らかにその姿を称える藤堂高虎ゆかりの
伊賀上野城(別名:白鳳城)がある。


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もともとは、筒井定次(つついさだつぐ)が築城したのですが
豊臣秀吉の没後、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝ち、
豊臣政権の継承者としての地位を確立するため失政を理由に改易。

その後の慶長13年(1608)8月、
徳川家康は信任が厚かった藤堂高虎(とうどうたかとら)に
来るべく大坂との決戦に備え伊賀上野城を任せます。


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筒井定次の城は、大坂城の出城として大坂を守る形をとっていたのに対し、
藤堂高虎の城は、大坂を攻撃するための城と全く逆の立場の城となりました。

当時、大坂城には豊臣秀頼がおり
豊臣氏包囲網の一城となったのです。

築城の名手だった藤堂高虎は、上野城を有事の根城として
本丸を西に拡張し、高さ約30mという高石垣をめぐらし
筒井氏の築いた城の大改修を行いました。


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天守閣の中は博物館として利用されており
鎧甲や刀、殿様が乗っていた駕籠などが展示されています。


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↑藤堂高虎が豊臣秀吉から拝領したといわれる兜(三重県指定文化財)
 のちに藤堂良重が拝領、この兜をかぶり大坂夏の陣に出陣し
 豊臣方と戦い討死したといわれています。


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↑階段で二階に上がると格天井になっていて
 面々たる著名人の絵画や書が飾られていました。


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↑一番驚いたのはこの絵!横山大観が描いた月の絵だそうです。
 こんな所で思いがけずこんな素晴らしいものを
 拝見できるなんて感激です♪


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↑名前をみると徳川家や徳富蘇峰などの著名人ばかりです

現在の天守は、昭和10年(1935)に地元の名士・川崎克氏が私財を投じて
純木造の復興天守として再建しました。
名前は、伊賀上野城ではなく伊賀文化産業城と言われていたそうです。

個人的に、川崎克氏に拍手喝采です。
よくぞ純木造で再建してくれました!!

大阪城に初めて行ったとき、コンクリート造りとエレベーターに
かなりどん引きしました。興ざめもいいところです。

確かにお城を造ること自体、巨額の資金も必要ですし
維持管理も大変ですが、そのためにコンクリートで作ってしまうのは
いかがなものかと内心思ったものでした。


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↑欄間も弓と弓矢で作られています。細かい造りに関心してしまいます。

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↑窓からはかつての城下町をみることができます。
 当時はどのような風景が広がっていたのでしょうか。


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↑天守閣を出て掘りを見下ろしてみると!

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↑これが高さ約30mの高石垣(たかいしがき)です。
 大阪城の石垣と日本で一位・二位を争う高さだそうです。

ちなみに城跡は、昭和42年(1967)に国史跡に
天守は、昭和60年(1985)に伊賀市の文化財に指定されています。


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↑上野市の向こうに見える山々も紅葉して美しい。
 秋の空に良く映えています。


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↑イロハモミジでしょうか、上野公園内の木々も色鮮やかに染まっていました。


のんびり散策していると木の陰から
背中に刀を差した小さな小さな忍者がひょっこり走ってきました。
なんて可愛いらしい♪


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どうやら兄弟のようです。
ゴムの手裏剣を投げたり、斜面をのぼったり元気に走り回る
子供たちをお母さんと祖父母がニコニコと眺めています。

伊賀といえば、やはり伊賀流忍者ですよね。
まさかこんな形で出会えるなんて♪

可愛い〜♪と騒いでいたらおじいさんが
衣裳貸してもらえるよ!と教えてくれました。
どうやら大人でも変身できるらしい。

毎年「忍者フェスタ」というものが開催されているようで
その時期になると大人も子供も忍者に扮し
町中が忍者だらけになるんだとか。

身を隠すのが忍者でしたが平成の忍者は
目立つことを許されているようです(笑)



タグ:三重
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