2012年06月23日

「八重の桜」新島 襄と八重が暮らした新島旧邸


京都市上京区寺町にある、
新島八重とその夫、新島 襄が暮らした「新島旧邸」です。

新島八重とは、2013年1月スタート予定の
「八重の桜」の主人公で、本ブログの
『2013NHK大河ドラマ「八重の桜」4つの時代を生きた女性』
で紹介しています。
 ↑クリックするとブログが開きます

新島 襄の幼名は「七五三太(しめた)」、
元服後の名は「敬幹(けいかん)」といいます。
アメリカ在住の頃、周囲からジョウ(ジョセフ)と呼ばれていたことから
帰国後、自身の名を新島襄(じょう)と改めたのです。


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↑同志社大学の創立者、新島 襄と妻の八重が暮らした新島旧邸

1878年(明治11年)9月初めに竣工し
1985年(昭和60年)6月1日、調度・家具類を含めて
京都市の有形文化財に指定されました。

もともとこの敷地には、幕末まで禁裡幕府の御用大工棟梁の
中井家の屋敷があり、堂上華族の高松保実が所有していました。

そこで、新島 襄は1875年(明治8年)11月29日、
その高松保実邸の半分を賃貸し「同志社英学校」を開校し
同志社大学の発祥の地となりました。
また、開校したこの日は、同志社大学の創立記念日となっています。
(ちなみに開校の1ヶ月前に、襄と八重は婚約しています)

翌年、学校は旧薩摩藩邸(現在の京都・今出川キャンバス)へ移りますが
その後、新島 襄は高松邸を買い取り自宅を建築。
この新島旧邸で、二人は結婚生活を送り
八重は86歳で亡くなるまで、ここで暮らしました。


新島 襄の西洋文化にふれた10年の歳月を物語るように
和に洋を取り入れた当時としては、先進性の高い和洋折衷の建築物です。


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↑新島旧邸は寺町通りに面し、道路を挟んだ目の前は「京都御所」です

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↑木戸をくぐると玄関へと通じる白い砂利道のアプローチが伸びています。
 玄関は、木々の葉で埋もれそうです。


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↑窓の上には、欄間が設けられガラス戸の外側には、観音開きのルーバー扉がつています。
 雨戸を鎧戸にしたようなイメージです。
 アメリカ帰りとあって、和と洋をうまく取り入れたデザインになっています。


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↑玄関を入った正面は2階への階段。その右手には応接間があり
 八重が愛用したといわれるオルガンが置いてありました。

 結婚の翌年(1877年頃)八重は、女子に裁縫や読み書きを教える
 京都女紅場(にょこうば)の経験をもとに私塾を始めます。
 これが、現在の同志社女子大学の前身となりました。

 夫は「同志社大学」を、妻は「同志社女子大学」の基礎を築いたのです。


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↑約18畳はどの応接間には、当時使われていた机やイスがそのまま置かれています。
 ここは、生徒が集まって勉学に励む場であったり
 職員室や会議室として使用するなど多目的に使われていたそうです。

 「同志社英学校」の開校当時、生徒はわずか8名でしたが、その中に
 のちのジャーナリスト「徳富蘇峰(とくとみ そほう)」がいたといわれます。

 結婚当時の八重の服装は、着物を着て頭には帽子、
 足には草履ではなく靴を履いていたのだそうです。
 その姿を見た、徳富蘇峰は
 「頭と足は西洋、胴は日本という鵺(ぬえ)のような女がいる」と
 強く非難したそうです。

 ですが、新島 襄の闘病のおり八重の献身的な看病をみて
 今までの非礼を詫び八重と和解したといわれます。


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↑応接間には、勝海舟が新島 襄に贈った「書」が掛けられていました。
 勝海舟の座右の銘が書かれているそうです。達筆すぎて読めない・・・。


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↑冬でも暖かく過ごせるよう暖炉の機能をもつ
 「セントラル・ヒーティング」(左側の黒く四角いもの)が配置されています。
 この装置は、ダクトを通じ余熱で2階の各部屋も暖められるようになっています。

 また、室内に真夏の太陽が入りにくくなるよう奥行きのある庇を設けたり
 床を高めに造ったり、夏も涼しく過ごせるよう工夫されています。

 洋風の印象が強い室内ですが、
 壁は伝統的な和風建築に用いられる「真壁造り」になっています。

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↑1階(写真左)の東、南、西の3面廊下(縁側)は幅広く造られ庇にも奥行きがあります。
 2階(写真右)も1階と同じ3面のバルコニーになっています。
 当時、東側のバルコニーからは「大文字山」がよく見えたそうです。


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↑新島 襄が書斎として使っていた部屋です。
 本棚に納められた書物の8割は洋書だったそうで、
 学生は図書館のように使っていたとか。
 その本は今、同志社社史資料センターに保管されているため
 本棚にはレプリカがレイアウトされています。


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↑ここも、机やイスといった家具類も当時のままだそうです。
 書斎の机は、壁際ではなく部屋の中央近くに置かれていました。
 これも、西洋風なのでしょうか。

 ちなみに、今は畳敷きになっていますが
 当時は全ての部屋が板張り(フローリング)だったのだそうです。


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↑襄が亡くなったあと、八重が洋間を和室に改造したのだそうです。
 茶道のたしなみも高かった八重は、ここでも師弟に茶道を教えていたのでしょうか。


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↑新島八重の若い頃から晩年の写真。茶道の様子もうかがえます。
 (ケース越しに撮影しているため、他のものが写り込んでいます)

夫・新島 襄がハンサムウーマンと称えた妻・八重は
この場所で、日清・日露戦争を経験し民間女性初の叙勲を褒章する
日本のナイチンゲールへと歩んでいきます。


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↑当時、台所は土間にすることがほとんどでしたが、ここの床は板の間になっています。
 しかも、室内に井戸(右奥につるべがあります)がある台所です。
 現代のシステムキッチンと同じような並びになっていて、
 同時にしては先進性の高い仕様だと思います。

 台所のかまど横には、勝手口があり附属屋へ続いています。付属屋は
 新島の両親の隠居所として江戸藩邸にあった住居に準じて造ったのだそうです。

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↑台所は天井も高く、天窓から明かりが採れるようになっています。

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↑食堂のテーブル・イス・食器棚などの家具類も文化財に指定されています。
 中央の奥に見えるのは、台所です。


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↑階段下は、収納できる箱階段になっています。

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↑2階への階段は、玄関を入った正面の階段と食堂横からの階段、
 2箇所ありました。なんだか贅沢な造りでビックリです。


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↑2階には、居間と寝室の4部屋があります。
 寝室には、新島夫婦が愛用したベッドが置かれていました。


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↑押入れの襖絵もおしゃれです。
 入口横の床に黒く四角いものがありますが、これが先ほどの
 セントラル・ヒーティングの吹き出し口です。


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↑どの部屋にもいえるのですが、窓が大きく採光や通風もよく
 開放感のある住空間になっていました。


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↑吹き抜け階段の上部には窓が設けられ、気持ちの良い空間になっています。

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2012年、同志社大学は創立137年を迎えます。大学の設立に奮闘・貢献した
新島 襄と八重は今、京都市左京区若王子山の同志社墓地に眠っています。




※このブログは、「新島旧邸」を管理している
 同志社社史資料センター様の許可を得て、写真などをブログ公開しております。


タグ:京都
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2012年06月21日

2013 NHK大河ドラマ「八重の桜」4つの時代を生きた女性


2013年1月スタート予定のNHK大河ドラマは、
復興をめざす東北への強いメッセージを込めた
「八重の桜」に決まったそうです。

先日、その「八重の桜」に主演するキャストが発表されました。

主人公の新島八重役には、綾瀬はるか
八重の最初の夫(川崎尚之助)役には、長谷川博己
八重の兄(山本覚馬)役に、西島秀俊
八重の弟(山本三郎)役に、工藤阿須賀(父・元プロ野球選手の工藤公康)

その他、西田敏行、玉山鉄二、長谷川京子、
黒木メイサ、稲森いずみ、剛力彩芽、
中村獅童、風吹ジュン、といった豪華な顔ぶれです。


会津出身の八重と同じ福島県を故郷にもつ西田敏行さんは
「会津藩の人々が美しくも雄々しく、幕末を生き抜いたことを
全国の人々に知ってもらいたい。3.11以降の福島県の人たちにも
福島県人としての矜持(きょうじ)を取り戻す
きっかけにしていただければ。
遠望のきいた目線で演じていきたい」と挨拶されました。

ちなみに、テーマ音楽は世界的にも評価の高い
坂本龍一さんが手がけるそうです。


さてこの「新島八重」とは、どのような人物なのか。
そのポイントは、この4つ!にあります。

1. ならぬことはならぬ
2. 幕末のジャンヌ・ダルク
3. ハンサムウーマン
4. 日本のナイチンゲール



■「ならぬことはならぬ」の精神

今から約170年前の江戸時代、
ペリーが黒船で浦和に来航する8年前のこと
八重は会津藩(現在の福島県会津若松市)で
代々砲術師範を務める山本家の三女として生まれました。

女らしく育ってほしい、との周囲の想いをよそに
幼少の頃から男勝りだったといわれます。

1932年(昭和7年)86歳頃で亡くなるまでの
江戸・明治・大正・昭和と4つの時代をたくましく生きた女性、八重は
広い見識を持つ兄・覚馬を師と仰ぎ、裁縫よりも鉄砲に興味を持ち
会津の人材育成の指針・什(じゅう)の誓い
「ならぬことはならぬ」の理屈ではない強い教えのもと育ちます。

白虎隊・士中二番隊で自刃した伊藤悌太郎らも
八重から砲術を教わっていたといわれます。



■銃で参戦「幕末のジャンヌ・ダルク」

20歳前後に、最初の夫となる川崎尚之助と結婚するが
戊辰戦争の前に離婚。戦争の時には、断髪・男装し会津・鶴ヶ城に籠城、
元夫らと共に家芸の砲術をもって、自らもスペンサー銃を持ち奮戦するも敗戦。

落城の折、白壁に
「明日の夜は何国の誰か眺むらん 慣れし御城に残す月影」と
刻んだといわれます。

明治へ移行する幕末の時代にあって、女性ながら銃を持って戦ったさまは、
のちに「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれることになります。



■生き方が美しい人「ハンサムウーマン」

戊辰戦争から3年後(明治4年)それまでの銃を捨て、
兄・覚馬を頼り京都へ上洛。
勝海舟や佐久間象山とも交流のあった兄のもと
京都で、知識という新たな生き甲斐を得ることになります。

そこで、覚馬と親交があったのちの「同志社大学」創立者、
新島 襄(にいじま じょう)と知り合い、30歳頃に
2度目の結婚をすることとなります。
<新島 襄と八重が暮らした「新島旧邸」の紹介はコチラをクリック!>

新島 襄は21歳頃の時、自由な学問を夢みて
国禁を犯し函館から脱国。アメリカへ密航し10年後に帰国。


23歳頃、洗礼を受けキリスト教徒となる。
27歳頃、理学士の称号を得てアーモスト大学を卒業。
31歳頃、アンドーヴァー神学校で牧師の資格を得て帰国。
32歳頃、同志社大学の前身「官許同志社英学校」を開校。
     そして、八重と結婚。

キリスト教への反発が強い世の中だったにもかかわらず、
八重も洗礼を受けキリスト教徒となり、
京都で日本人初のキリスト教式の結婚式を行っています。


自ら正しいと思うことは、こだわりなく実行する気質は
八重の性格をよく表しているといえます。

男女平等を望む八重は、アメリカの西洋文化にふれた夫を
ジョー(襄)と呼び捨てにし、
夫よりも先に人力車に乗車するさまをみて
世間は、女のくせに偉そうだと「天下の悪妻」と言って罵ります。
それでも八重は、動じることもなく自分のスタイルを貫くのです。

レディーファーストが理解されなかった男尊女卑の時代、
八重の振る舞いを唯一理解していたのは、
夫・新島 襄だったといえるでしょう。

父宛の手紙には「日本の女性の如くなき女子」としたため
当時としては珍しく自我に目覚めた八重は、襄の理想の女性だったのでしょう。

事あるたびに八重の強さに魅了され、その不屈な精神に
惚れていた襄は、アメリカの養母に宛てた手紙に
「彼女は決して美しい女性ではありません。
しかし、生き方が美しいハンサムウーマンなのです」と綴っています。
酷評とは逆に、八重あっての新島 襄だったのかもしれません。



■民間女性初の叙勲「日本のナイチンゲール」

同志社大学の設立運動と同志社女学校の発展に奔走していた襄は、
結婚から14年後、病に倒れ八重が看取る中、
「グッドバイ、また会わん」と言い残し46歳で永眠。

同年、八重は日本赤十字社正社員となり社会奉仕事業に献身します。


1895年、日清戦争で戦時救護活動のため広島へ。(八重、50歳頃)
     (日本で初めて、看護婦による救護活動となる)
1896年、日清戦争での功労と慰労に対し、勲七等宝冠章が授与される。
1905年、日露戦争時、大阪にて篤志看護婦として従軍。(八重、60歳頃)
1906年、日露戦争の功績により、勲六等宝冠章が授与される。

女性が戦場へ赴くなど考えられなかった時代、八重は仲間の篤志看護婦と共に
果敢に行動へ移し、女性初の藍綬褒章を授かったのです。

1928年、昭和天皇の即位大礼に際し、八重は日本赤十字社での功績を称えられ
     「銀杯」を下賜されました。(八重、82歳頃)

その4年後、会津の誇りを胸に戦った「幕末のジャンヌ・ダルク」は
明治の時代がゆえに酷評された「ハンサムウーマン」の時を経て
戦渦の痛みを癒す「日本のナイチンゲール」となりこの世を去ります。



■フリーライターの独り言 ←文字をクリック!

江戸・明治・大正・昭和と怒濤の4つの時代を生き
没後約80年経ち5つ目の時代となる平成の世に
「新島八重」は、どうのように描かれ生きるのか。
来年のドラマのスタートがとても楽しみです。

信念を貫くには覚悟がいる。
1つの条件を除き、強そうにみえる女性こそ、
本当は弱いものだと思うときがあります。

ただ1つの条件、
それはたった一人でも良き理解者がいること。
そして必要とされていること。


どの時代のどんな境遇においても、
信頼し、そのことを尊重してくれる人がいるだけで
道を切り開き、心強く何かを乗り越えられたりするものだと私は思います。

新島 襄・八重の夫婦も、お互いに尊敬しあう良き理解者という
そんな存在だったのではないかと思うのです。

この二人のような大きなことを成し遂げなくても
日常生活の中で、小さなことをいくつも達成するとき
きっと、あなたの周りには良き理解者がいるのです。





※年齢については、諸処の参照記述に多少の差異があるため
 おおよそにて記載しています。


タグ:京都
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2012年05月13日

「大阪市中央公会堂」のせつない話

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大阪市民なら誰でも知っている大阪市中央公会堂(通称:中之島公会堂)は
今から約90年以上前、1918年(大正7年)に竣工。

以前は、ビジネスマンが行き交うだけの地味な印象があったのですが
2008年10月に開通した、京阪電車・中之島線のおかげか、
街並みは整備されとてもキレイになりました。


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赤煉瓦と石の白いライン、ドーム型の青銅屋根が印象的な大阪中央公会堂。
みなさんは、この建物の完成までのエピソードをご存じでしょうか。

当時、早稲田大学の教授だった岡田信一郎氏が今でいう設計コンペに当選。
岡田氏の案を基に、のちに東京駅を設計した辰野金吾(たつの きんご)氏と
関西建築協会初代理事長の片岡安(かたおか やすし)氏が開設した、
「辰野片岡建築事務所」が実施設計。約5年の歳月をかけて完成します。


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↑この赤煉瓦と石の白いラインは「辰野式」といわれ
東京駅にもこのデザインが採用されていますよね

大阪市中央公会堂の竣工後は、歌劇などで大変賑わったそうです。
また、ヘレンケラーやガガーリン、ゴルバチョフ氏の講演会も
ここで行われました。



辰野片岡建築事務所は、かなり有名で
今でもその建築物は名建築として保存されています。
北浜にある「高麗橋ビルディング(旧日本教育生命保険)」もその一つです。


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↑高麗橋ビルディング 2008年までは「シェ・ワダ」が入店していましたが
 今は別の店舗が営業されています


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↑北側の様子

話を戻します。

大阪中央公会堂は1999年3月〜2002年9月に、
歴史的建造物としての保存と復元修復作業に加え、
耐震性を持たせるための免震工事が施されました。

そして工事完了の同年12月に、公会堂建築物として西日本で初めて
「国の重要文化財」に指定。


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↑免震を施したため、地震時に建物と地面がぶつからないよう
大阪中央公会堂と地面の間には溝が作られています



この立派な大阪市中央公会堂を語るうえで、
もう一人忘れてはいけないのが、
大阪株式取引所(現:証券取引所会員)の仲介人、
「義侠(ぎきょう)の相場師」と呼ばれた岩本栄之助氏です。

明治の後期、岩本氏は渡米実業団に参加。
アメリカの多くの富豪が財産や遺産などを
公共施設や慈善事業に投じていることに感銘を受けます。

帰国後、自らも約100万円の私財を公共施設建設のため大阪市に寄付。
この投資額は、今の金額にすると数十億円という
かなり巨額なものでした。

江戸時代、堂島川と土佐堀川に挟まれたこの中之島は、
各藩の蔵屋敷があり流通の要だったそうです。

明治にはこの蔵屋敷が廃しされ、
郵便局や裁判所、学校、病院、図書館などの公共施設が
次々と建設されていきます。
大正に入り岩本氏が寄付した公会堂建設資金で、
大阪市が計画を進めコンペにいたったのです。

完成までの間、第一次世界大戦がはじまり
その影響を受け、株で大損失を出した岩本氏は、
公会堂の完成を見ることなく自ら命を絶ってしまうのです。

なんとも切ない話。
もし寄付をしていなかったら・・・。
もう少し寄付金を減額していたら・・・。
この建物の歴史と岩本氏の人生は、もっと変わっていたかもしれません。


タグ:大阪
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