2012年06月21日

2013 NHK大河ドラマ「八重の桜」4つの時代を生きた女性


2013年1月スタート予定のNHK大河ドラマは、
復興をめざす東北への強いメッセージを込めた
「八重の桜」に決まったそうです。

先日、その「八重の桜」に主演するキャストが発表されました。

主人公の新島八重役には、綾瀬はるか
八重の最初の夫(川崎尚之助)役には、長谷川博己
八重の兄(山本覚馬)役に、西島秀俊
八重の弟(山本三郎)役に、工藤阿須賀(父・元プロ野球選手の工藤公康)

その他、西田敏行、玉山鉄二、長谷川京子、
黒木メイサ、稲森いずみ、剛力彩芽、
中村獅童、風吹ジュン、といった豪華な顔ぶれです。


会津出身の八重と同じ福島県を故郷にもつ西田敏行さんは
「会津藩の人々が美しくも雄々しく、幕末を生き抜いたことを
全国の人々に知ってもらいたい。3.11以降の福島県の人たちにも
福島県人としての矜持(きょうじ)を取り戻す
きっかけにしていただければ。
遠望のきいた目線で演じていきたい」と挨拶されました。

ちなみに、テーマ音楽は世界的にも評価の高い
坂本龍一さんが手がけるそうです。


さてこの「新島八重」とは、どのような人物なのか。
そのポイントは、この4つ!にあります。

1. ならぬことはならぬ
2. 幕末のジャンヌ・ダルク
3. ハンサムウーマン
4. 日本のナイチンゲール



■「ならぬことはならぬ」の精神

今から約170年前の江戸時代、
ペリーが黒船で浦和に来航する8年前のこと
八重は会津藩(現在の福島県会津若松市)で
代々砲術師範を務める山本家の三女として生まれました。

女らしく育ってほしい、との周囲の想いをよそに
幼少の頃から男勝りだったといわれます。

1932年(昭和7年)86歳頃で亡くなるまでの
江戸・明治・大正・昭和と4つの時代をたくましく生きた女性、八重は
広い見識を持つ兄・覚馬を師と仰ぎ、裁縫よりも鉄砲に興味を持ち
会津の人材育成の指針・什(じゅう)の誓い
「ならぬことはならぬ」の理屈ではない強い教えのもと育ちます。

白虎隊・士中二番隊で自刃した伊藤悌太郎らも
八重から砲術を教わっていたといわれます。



■銃で参戦「幕末のジャンヌ・ダルク」

20歳前後に、最初の夫となる川崎尚之助と結婚するが
戊辰戦争の前に離婚。戦争の時には、断髪・男装し会津・鶴ヶ城に籠城、
元夫らと共に家芸の砲術をもって、自らもスペンサー銃を持ち奮戦するも敗戦。

落城の折、白壁に
「明日の夜は何国の誰か眺むらん 慣れし御城に残す月影」と
刻んだといわれます。

明治へ移行する幕末の時代にあって、女性ながら銃を持って戦ったさまは、
のちに「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれることになります。



■生き方が美しい人「ハンサムウーマン」

戊辰戦争から3年後(明治4年)それまでの銃を捨て、
兄・覚馬を頼り京都へ上洛。
勝海舟や佐久間象山とも交流のあった兄のもと
京都で、知識という新たな生き甲斐を得ることになります。

そこで、覚馬と親交があったのちの「同志社大学」創立者、
新島 襄(にいじま じょう)と知り合い、30歳頃に
2度目の結婚をすることとなります。
<新島 襄と八重が暮らした「新島旧邸」の紹介はコチラをクリック!>

新島 襄は21歳頃の時、自由な学問を夢みて
国禁を犯し函館から脱国。アメリカへ密航し10年後に帰国。


23歳頃、洗礼を受けキリスト教徒となる。
27歳頃、理学士の称号を得てアーモスト大学を卒業。
31歳頃、アンドーヴァー神学校で牧師の資格を得て帰国。
32歳頃、同志社大学の前身「官許同志社英学校」を開校。
     そして、八重と結婚。

キリスト教への反発が強い世の中だったにもかかわらず、
八重も洗礼を受けキリスト教徒となり、
京都で日本人初のキリスト教式の結婚式を行っています。


自ら正しいと思うことは、こだわりなく実行する気質は
八重の性格をよく表しているといえます。

男女平等を望む八重は、アメリカの西洋文化にふれた夫を
ジョー(襄)と呼び捨てにし、
夫よりも先に人力車に乗車するさまをみて
世間は、女のくせに偉そうだと「天下の悪妻」と言って罵ります。
それでも八重は、動じることもなく自分のスタイルを貫くのです。

レディーファーストが理解されなかった男尊女卑の時代、
八重の振る舞いを唯一理解していたのは、
夫・新島 襄だったといえるでしょう。

父宛の手紙には「日本の女性の如くなき女子」としたため
当時としては珍しく自我に目覚めた八重は、襄の理想の女性だったのでしょう。

事あるたびに八重の強さに魅了され、その不屈な精神に
惚れていた襄は、アメリカの養母に宛てた手紙に
「彼女は決して美しい女性ではありません。
しかし、生き方が美しいハンサムウーマンなのです」と綴っています。
酷評とは逆に、八重あっての新島 襄だったのかもしれません。



■民間女性初の叙勲「日本のナイチンゲール」

同志社大学の設立運動と同志社女学校の発展に奔走していた襄は、
結婚から14年後、病に倒れ八重が看取る中、
「グッドバイ、また会わん」と言い残し46歳で永眠。

同年、八重は日本赤十字社正社員となり社会奉仕事業に献身します。


1895年、日清戦争で戦時救護活動のため広島へ。(八重、50歳頃)
     (日本で初めて、看護婦による救護活動となる)
1896年、日清戦争での功労と慰労に対し、勲七等宝冠章が授与される。
1905年、日露戦争時、大阪にて篤志看護婦として従軍。(八重、60歳頃)
1906年、日露戦争の功績により、勲六等宝冠章が授与される。

女性が戦場へ赴くなど考えられなかった時代、八重は仲間の篤志看護婦と共に
果敢に行動へ移し、女性初の藍綬褒章を授かったのです。

1928年、昭和天皇の即位大礼に際し、八重は日本赤十字社での功績を称えられ
     「銀杯」を下賜されました。(八重、82歳頃)

その4年後、会津の誇りを胸に戦った「幕末のジャンヌ・ダルク」は
明治の時代がゆえに酷評された「ハンサムウーマン」の時を経て
戦渦の痛みを癒す「日本のナイチンゲール」となりこの世を去ります。



■フリーライターの独り言 ←文字をクリック!

江戸・明治・大正・昭和と怒濤の4つの時代を生き
没後約80年経ち5つ目の時代となる平成の世に
「新島八重」は、どうのように描かれ生きるのか。
来年のドラマのスタートがとても楽しみです。

信念を貫くには覚悟がいる。
1つの条件を除き、強そうにみえる女性こそ、
本当は弱いものだと思うときがあります。

ただ1つの条件、
それはたった一人でも良き理解者がいること。
そして必要とされていること。


どの時代のどんな境遇においても、
信頼し、そのことを尊重してくれる人がいるだけで
道を切り開き、心強く何かを乗り越えられたりするものだと私は思います。

新島 襄・八重の夫婦も、お互いに尊敬しあう良き理解者という
そんな存在だったのではないかと思うのです。

この二人のような大きなことを成し遂げなくても
日常生活の中で、小さなことをいくつも達成するとき
きっと、あなたの周りには良き理解者がいるのです。





※年齢については、諸処の参照記述に多少の差異があるため
 おおよそにて記載しています。


タグ:京都
posted by ショコラ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 名建築
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