松尾芭蕉は、今から370年近く前の江戸時代、
正保元年(1644)現在の三重県伊賀市に生まれました。
↑松尾芭蕉の生誕の地「芭蕉翁生家」
三重県伊賀市上野赤坂町(伊賀鉄道上野市駅から徒歩約10分)
建物は安政の大震災(1854)で全壊。
のちに改築されたのですがそれでも昔の面影が伝わってくる
建物になっていて楽しめましたよ。
テレビや映画の時代劇などをみていて
何故あんなに出入り口が小さいのかと
疑問に思っていたのですが・・・。
その理由は、当時の平均身長にありました!!
江戸時代の平均身長は、
男性で145cm、女性で140cmほどだったそうです。
現代の小学生・高学年ぐらいの身長ですよね。
浦和にやってきた黒船のペリーは
子供の国だと思ったんじゃないかと
思うのでした。。。
芭蕉翁生家の中に入ると
表(みせ)の間、中の間、奥の間があり、表の間には
芭蕉翁の座像がありました。
↑奥の間からは、中庭が見えます
↑中庭は、こんな感じです
土間を奥に進むと水屋、釜戸、井戸、みそかめ、おひつ、とっくり、
ひき臼、番傘、十能、風呂場、便所などがあり
当時の生活ぶりをうかがい知ることができます。
この土間を奥までいくと裏庭に出ることができ
そこには、芭蕉の青年時代の書斎となる
「釣月軒(ちょうげつけん)」と名付けられた建物があります。
↑「釣月軒」の入口
この「釣月軒」は芭蕉が生前中に
自署、自著として刊行した唯一の出版物『貝おほひ』を
執筆した記念すべき文学遺跡です。
この『貝おほひ』を文学の神で連歌の神でもある
上野天神宮へ奉納、俳諧師として世に立つ決意を示し
江戸へと旅立って行きました。
芭蕉が29歳の時のことです。
その後も幾度となくここへ帰郷していたといわれます。
↑文机と行灯が置かれた質素な部屋に
若き日の芭蕉の姿が忍ばれます。
帰郷の時は、ここで寝起きしていたそうです。
↑「釣月軒」の横・左奥には、芭蕉の木が植えられていました
日本史上最高の俳諧師といわれる芭蕉の
当初の俳諧名は、桃青でした。
当時、芭蕉の木は実もつけず弱い木だったことから
食料にもならず紙などの商品にすることもできなかったことから
なんの役にも立たない木だといわれていたそうです。
その芭蕉の木をみて、俳句を詠んだところで
腹が満たされるわけでもなく生活ができるわけでもない
人の役にたつことがないことをなぞって
自らの俳諧名を桃青から芭蕉に改名したと言われています。

後生に残る名作を生み出した芭蕉は
元禄7年(1694)10月12日、51歳のとき
旅先の大阪でその生涯を閉じました。
その終焉の地は、御堂筋の拡幅工事の
あおりで取り壊されましたが
現在は、大阪の御堂筋沿いにある
南御堂のほぼ前あたり
御堂筋の本線と測道の間のグリーンベルトに
石碑が建てられています。
また、亡骸は芭蕉の遺言により
現在の滋賀県大津市にある
「義仲寺(ぎちゅうじ)」に運ばれ
木曾義仲の墓の隣に葬られたそうです。
←「此附近芭蕉翁終焉之地」
と書かれた石碑。
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