2012年11月28日

松尾芭蕉 生誕の地「芭蕉翁生家」


松尾芭蕉は、今から370年近く前の江戸時代、
正保元年(1644)現在の三重県伊賀市に生まれました。


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↑松尾芭蕉の生誕の地「芭蕉翁生家」
 三重県伊賀市上野赤坂町(伊賀鉄道上野市駅から徒歩約10分)

建物は安政の大震災(1854)で全壊。
のちに改築されたのですがそれでも昔の面影が伝わってくる
建物になっていて楽しめましたよ。


DSCF1516.JPG 小さな入口(格子戸)をぐぐって中に入ります。
 テレビや映画の時代劇などをみていて
 何故あんなに出入り口が小さいのかと
 疑問に思っていたのですが・・・。

 その理由は、当時の平均身長にありました!!
 江戸時代の平均身長は、
 男性で145cm、女性で140cmほどだったそうです。

 現代の小学生・高学年ぐらいの身長ですよね。

 浦和にやってきた黒船のペリーは
 子供の国だと思ったんじゃないかと
 思うのでした。。。



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芭蕉翁生家の中に入ると
表(みせ)の間、中の間、奥の間があり、表の間には
芭蕉翁の座像がありました。


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↑奥の間からは、中庭が見えます

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↑中庭は、こんな感じです

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土間を奥に進むと水屋、釜戸、井戸、みそかめ、おひつ、とっくり、
ひき臼、番傘、十能、風呂場、便所などがあり
当時の生活ぶりをうかがい知ることができます。

この土間を奥までいくと裏庭に出ることができ
そこには、芭蕉の青年時代の書斎となる
「釣月軒(ちょうげつけん)」と名付けられた建物があります。


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↑「釣月軒」の入口

この「釣月軒」は芭蕉が生前中に
自署、自著として刊行した唯一の出版物『貝おほひ』を
執筆した記念すべき文学遺跡です。

この『貝おほひ』を文学の神で連歌の神でもある
上野天神宮へ奉納、俳諧師として世に立つ決意を示し
江戸へと旅立って行きました。

芭蕉が29歳の時のことです。
その後も幾度となくここへ帰郷していたといわれます。


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↑文机と行灯が置かれた質素な部屋に
 若き日の芭蕉の姿が忍ばれます。
 帰郷の時は、ここで寝起きしていたそうです。


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↑「釣月軒」の横・左奥には、芭蕉の木が植えられていました
 
日本史上最高の俳諧師といわれる芭蕉の
当初の俳諧名は、桃青でした。

当時、芭蕉の木は実もつけず弱い木だったことから
食料にもならず紙などの商品にすることもできなかったことから
なんの役にも立たない木だといわれていたそうです。

その芭蕉の木をみて、俳句を詠んだところで
腹が満たされるわけでもなく生活ができるわけでもない
人の役にたつことがないことをなぞって
自らの俳諧名を桃青から芭蕉に改名したと言われています。


121203_1250~0001.jpg 「おくの細道」「野ざらしの旅」など
 後生に残る名作を生み出した芭蕉は
 元禄7年(1694)10月12日、51歳のとき
 旅先の大阪でその生涯を閉じました。

 その終焉の地は、御堂筋の拡幅工事の
 あおりで取り壊されましたが
 現在は、大阪の御堂筋沿いにある
 南御堂のほぼ前あたり
 御堂筋の本線と測道の間のグリーンベルトに
 石碑が建てられています。

 また、亡骸は芭蕉の遺言により
 現在の滋賀県大津市にある
 「義仲寺(ぎちゅうじ)」に運ばれ
 木曾義仲の墓の隣に葬られたそうです。

 ←「此附近芭蕉翁終焉之地」
 と書かれた石碑。



タグ:三重
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伊賀上野城と小さな忍者


三重県伊賀市の上野公園内に
清らかにその姿を称える藤堂高虎ゆかりの
伊賀上野城(別名:白鳳城)がある。


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もともとは、筒井定次(つついさだつぐ)が築城したのですが
豊臣秀吉の没後、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝ち、
豊臣政権の継承者としての地位を確立するため失政を理由に改易。

その後の慶長13年(1608)8月、
徳川家康は信任が厚かった藤堂高虎(とうどうたかとら)に
来るべく大坂との決戦に備え伊賀上野城を任せます。


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筒井定次の城は、大坂城の出城として大坂を守る形をとっていたのに対し、
藤堂高虎の城は、大坂を攻撃するための城と全く逆の立場の城となりました。

当時、大坂城には豊臣秀頼がおり
豊臣氏包囲網の一城となったのです。

築城の名手だった藤堂高虎は、上野城を有事の根城として
本丸を西に拡張し、高さ約30mという高石垣をめぐらし
筒井氏の築いた城の大改修を行いました。


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天守閣の中は博物館として利用されており
鎧甲や刀、殿様が乗っていた駕籠などが展示されています。


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↑藤堂高虎が豊臣秀吉から拝領したといわれる兜(三重県指定文化財)
 のちに藤堂良重が拝領、この兜をかぶり大坂夏の陣に出陣し
 豊臣方と戦い討死したといわれています。


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↑階段で二階に上がると格天井になっていて
 面々たる著名人の絵画や書が飾られていました。


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↑一番驚いたのはこの絵!横山大観が描いた月の絵だそうです。
 こんな所で思いがけずこんな素晴らしいものを
 拝見できるなんて感激です♪


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↑名前をみると徳川家や徳富蘇峰などの著名人ばかりです

現在の天守は、昭和10年(1935)に地元の名士・川崎克氏が私財を投じて
純木造の復興天守として再建しました。
名前は、伊賀上野城ではなく伊賀文化産業城と言われていたそうです。

個人的に、川崎克氏に拍手喝采です。
よくぞ純木造で再建してくれました!!

大阪城に初めて行ったとき、コンクリート造りとエレベーターに
かなりどん引きしました。興ざめもいいところです。

確かにお城を造ること自体、巨額の資金も必要ですし
維持管理も大変ですが、そのためにコンクリートで作ってしまうのは
いかがなものかと内心思ったものでした。


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↑欄間も弓と弓矢で作られています。細かい造りに関心してしまいます。

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↑窓からはかつての城下町をみることができます。
 当時はどのような風景が広がっていたのでしょうか。


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↑天守閣を出て掘りを見下ろしてみると!

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↑これが高さ約30mの高石垣(たかいしがき)です。
 大阪城の石垣と日本で一位・二位を争う高さだそうです。

ちなみに城跡は、昭和42年(1967)に国史跡に
天守は、昭和60年(1985)に伊賀市の文化財に指定されています。


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↑上野市の向こうに見える山々も紅葉して美しい。
 秋の空に良く映えています。


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↑イロハモミジでしょうか、上野公園内の木々も色鮮やかに染まっていました。


のんびり散策していると木の陰から
背中に刀を差した小さな小さな忍者がひょっこり走ってきました。
なんて可愛いらしい♪


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どうやら兄弟のようです。
ゴムの手裏剣を投げたり、斜面をのぼったり元気に走り回る
子供たちをお母さんと祖父母がニコニコと眺めています。

伊賀といえば、やはり伊賀流忍者ですよね。
まさかこんな形で出会えるなんて♪

可愛い〜♪と騒いでいたらおじいさんが
衣裳貸してもらえるよ!と教えてくれました。
どうやら大人でも変身できるらしい。

毎年「忍者フェスタ」というものが開催されているようで
その時期になると大人も子供も忍者に扮し
町中が忍者だらけになるんだとか。

身を隠すのが忍者でしたが平成の忍者は
目立つことを許されているようです(笑)



タグ:三重
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2012年11月25日

京都屈指の紅葉の名所「永観堂」


京都屈指の紅葉の名所「永観堂(えいかんどう)」。

京都市左京区永観堂町にあり、その地名にもなった東山の古刹で
約3000本の紅葉が境内を彩ります。


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永観堂(禅林寺)は、平安時代初期の863年に
弘法大師の弟子・真紹(しんじょう)僧都によって創建され
1100年余りの歴史を誇ります。


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↑瓦や白壁にも紅葉の赤い色が反射しています

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↑境内の紅葉

永観堂の歴史は、大きく三つの時代に分けられます。

真紹僧都から永観律師(ようかんりっし)が
住職になるまでの約220年間は真言密教の寺院でした。

その後、永観律師から静遍僧都(じょうへんそうず)までの
約140年間は、真言密教と奈良で盛んだった
三論宗系の浄土教寺院に、そして浄土宗の寺院となり現代にいたります。


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お気づきでしょうか?
この永観堂は、永観律師(ようかんりっし)の名に由来するのですが
ようかんどう、ではなく えいかんどう と呼ぶんですよ。


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永観堂といえば「みかえり阿弥陀像」でも有名ですよね。

その昔、永観が底冷えのするお堂で
ある時は正座し、ある時は阿弥陀像のまわりを念仏して
行道していたそうです。

すると突然、須弥壇に安置してある阿弥陀像が壇を下りて
永観を先導し行道をはじめられた。
永観は驚き、呆然と立ちつくすと阿弥陀は
左肩越しに振り返り「永観、おそし」と声をかけたのだそうです。

永観は、その尊く慈悲深いお姿を後世に伝えたいと
阿弥陀に願われ、阿弥陀如来像は
今にその尊容を伝えると言われています。

実際にその「みかえり阿弥陀像」に手を合わせることができますが
撮影禁止のためこの場でのご案内はできません。
ご覧になりたい方は本堂の中にも足を運んでくださいね。


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↑一面を多い隠す紅葉
 赤い絨毯を敷き詰めたように鮮やかです


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↑放生池に浮かぶ弁天島とそこに架かる橋
 水面に映りこむ風景にも目を奪われます


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今年の紅葉は、急に冷え込んだこともあり
昨年よりも色づきが良くとてもキレイです。
過去に何度かこの季節に来たことがあるのですが
今までで一番見応えがあった気がします♪

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↑阿弥陀堂(本堂)を隠すレースカーテンのような紅葉

「みかえり阿弥陀像」を拝むため多くの観光客が
御影堂(大殿)や阿弥陀堂(本堂)を拝観するため
中は長蛇の列になっています。


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↑境内で鳥の巣箱を見つけました!
 どんな鳥が飛んでくるのかしばらく眺めていましたが
 観光客が沢山いることもあり。。。


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永観堂には、七不思議といわれるものがあるんですよ。
(七つじゃなくても七不思議・・・)

1 <抜け雀>
小方丈の欄間に描かれた雀の絵(狩野探幽の筆といわれる)
10羽の雀が描かれていたが、右の欄間の1羽がいつの間にか
消え去ってしまい9羽になっていた。
この欄間の裏に1匹だけ鼠が描かれていて
この鼠になったのではないかともいわれている。

2 <悲田梅(ひでんばい)>
永観律師が待ちわびて貧しい病人に梅の木の実を
施したといわれる梅の樹、かつては梅林ほどあったといわれるが
現在は一本だけになり小さな実をつける。

梅が実をつけていることの何が不思議なの?と思われた方いませんか。

梅の品種にもよりますが、梅の寿命は長くて100〜300年、
一般的には25年ぐらいから実の付き方が減少していくそうです。

永観が生きていた時代からその梅があったとするなら
樹齢は900年を超えるでしょう。


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3 <臥龍廊>
御影堂から、阿弥陀堂、開山堂に登っていく階段と廊下。
山の斜面に沿って、巧みに木を組み合せて作られ
釘を1本も使わずに造られている。
龍の背中がうねっているように大きく湾曲していて
龍の体内を歩いているような感覚が得られとか。

4 <三鈷の松>
御影堂の横に立つ、葉先が3つに分かれている珍しい松の古木。
「三鈷」とは、「智慧」「慈悲」「真心」を表す密教法具のこと。
この松の葉を持っていると3つの福を授かるといわれる


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5 <木魚蛙>
御影堂の裏のあたりで、4月から5月にかけて蛙(カエル)が
木魚を叩いているような声で大きく鳴くのですが
その姿を誰も見たことがないといわれる。

6 <火除けの阿弥陀>
瑞紫殿の本尊。開山した真紹僧都が安置した5体の仏像の一つで
他の4体は応仁の乱で焼失するがこの像だけ奇跡的に
焼け残ったため「火除けの阿弥陀」と称されて尊ばれる。


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7 <岩垣もみじ>
境内の裏の急斜面から生えている紅葉。
元の邸宅を所有していた平安時代初期の歌人 藤原関雄が隠居中に、
「奥山の岩垣紅葉散りぬべし照る日の光みるときなくて」と
詠んだことに由来して名付けられる。

8 <勅使門前の光る砂>
勅使門の前には、勅使が、歩いて身を清めるための盛砂がされている。
その砂が、月明かりに光り、明かり取りとしても利用されたといわれる


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さて、皆さんはこの七不思議のうち幾つ見つけられるでしょうか。
紅葉以外にも目をこらして探してみてくださいね。



タグ:京都
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